延々と書いてきた
SAPIO 11・12月号の
古谷経衡『女政治家の通信簿』批判、
書こうと思えばまだ書けますが、
今回を結論とします。
古谷がこの記事で言っていることは、
政治の世界で女性の地位が低いのは
「独立不羈を志向しない女側にこそ
応分の問題がある」
これに尽きます。
要するに、
「差別されてる方が悪い」
と言っているのです。
こういうことを言う奴は、必ずいます。
差別されてる方も悪い、
いじめを受けた方にも問題がある、
レイプされた側にも隙があった、
被害者の側にも責任がある・・・
ふざけんな、と言いたい。
差別している方が悪いに
決まってるだろーが!
完全無欠な人間などいないのだから、
そりゃ無理やり探してこじつければ、
誰だって「落ち度」があったことに
できてしまうでしょう。
しかし、そんなのはほとんど言い掛かりで、
圧倒的に悪いのは差別する側、
いじめをする側、レイプした側です!
当たり前じゃないですか!
しかし、そんなのはほとんど言い掛かりで、
圧倒的に悪いのは差別する側、
いじめをする側、レイプした側です!
当たり前じゃないですか!
ところが、「いじめられた方も悪い」
なんてことを言う人があまりに
普通にいるものだから、
私はずっと、子供の頃にいじめを
受けていたことを人に言えませんでした。
自分の方が悪かったんだと
思い込んでいた時期もありました。
レイプ被害者の中にも、そういう人は
多いのだろうと推測します。
しかし、それでは
被害の実態を隠し、
被害の実態を隠し、
加害者をのさばらせる
結果にしかなりません。
結果にしかなりません。
被害者が声を上げられる社会で
なければならないという
伊藤詩織さんの訴えに私は共感します。
とはいえ、弱者は常に少数者だから、
圧倒的多数の側が耳を傾けなければ、
いくら声を上げてもどうにもならない。
弱者が自己責任と自助努力で
状況を改善するなんてことは
どうしても無理があり、
強者の側に、弱者の味方になる人が
どうしても必要になる。
だからこそよしりん先生は、
ずっと前から
「弱者のために強者になりたい」
と言い続けているのです。
強者におもねり、弱者を叩く古谷が
『ゴー宣』について来れなくなったのは、
全く当然のことだったわけです。
古谷の記事はネット上では
「何言いたいのかわからん退屈な文章だと
思ったら、やっぱり古谷か」
などとボロクソ言われていることが
多いのですが、Yahoo!ニュースに転載された
SAPIO記事のコメント欄は、
好意的なものが大勢を占めています。
古谷経衡や、
この記事に共感するような者は、
差別者の味方ともいうべき、
最低の人々だと私は思っています。
最低の人々だと私は思っています。